会津八一の奈良古美術研究は、楽 典家小川哨賜との出会いがなければ 実現しなかったかもしれない。
奈良 へ旅行したのが八一の第一の転機と すれば、晴陽との出会いは第二のま さに迩命的出会いともいえる。
この ふたりの出会いと親交のドラマは、
後に 作家となった蹄村利正の小説『奈良 飛鳥剛』(新潮社)に詳しく描かれ ている。
この大和路巡歴の後、毎年 券と秋、年中行蛎のように奈良への 旅を繰り返す。
『風物誌』のなかで 彼はこうつぶやく。《美術研究のた めに大和を訪れるなどは末のことで、 仏像は拝みに行くものだと、そのと きはじめてこの単純な理を悟った》 大和路迦雌とM時に記紀万災の仙 界に分け入った心井は、とりわけ聖 徳太子に心惹かれ、やがて「n本人の 桁神史研究」をライフワークとする。
この旭非勝一郎に大きな彩禅を受 けた写真家が奈良に住んでいた。平 成4年に急逝した入江泰吉である。
入江は空襲で大阪の家を焼かれ、や むなく故郷の奈良へ帰ってくる。 「脚破れて山河あり」の思いで毎日 もんもん を悶々と過ごしていたあるⅡ、彼は 屯井の『大和古寺風物誌』を下に入 れる。
旭井の文章は砂漠にしみいる 水のように、入江の広漢とした心に 流れ込んだ。実は入江が奈良の仏像 を搬り始めたのは別の動機からであ る。
しかし入江が戦後本格的に大 和・飛鳥の風景や古社寺の撮影に取 り組んだとき、この本の果たした役 割は決して小さくなかったのです。